健康性と美


   一

 蘇東坡の詩に「盧山煙雨浙江潮」と、始めと終わりの句が同じになってい

る有名な詩がある。

  盧 山 煙 雨 浙 江 潮

  不 到 千 般 恨 未 消

  到 得 帰 来 無 別 事

  盧 山 煙 雨 浙 江 潮

 蘇東坡の作の中でも禅意を深く伝えたものとして名高い。だが分かり易い

ようで分かり難い詩である。これが充分解れば禅境に達したとも云えるであ

ろう。至って坦々たる趣きである。それだけに尚含蓄が深い。真意は読む者

の心境に準じて深くも味われ浅くも採られるであろう。だがこの四行の中で

私がここに取り上げたいと思うのは、次の一行である。

  「到り得て帰り来れば別事無し」

 「別事無し」というこの境地が、心の帰趣とも云えよう。「到り得て帰り

来る」者の心境である。別に事のなき平穏な様を指すのである。ここに道の

道があると詩人は歌うのである。余りにも平易であって、どこに深玄な哲理

が含まれているかを訝る者もあろう。だがその平易にもまさる哲理がないこ

とを説くのである。

 晋書、范寧伝に「道尚虚簡政貴平静」と記してある。平静で簡易であるこ

とと道とは一つである。韓兪はこの境地を形容して「陽々如平常」とも云っ

た。

 三祖の「信心銘」は、驚くべき句を以て始まる。この冒頭の一句に、残る

凡ての句が懸かるとも云える。銘は躇わず筆を起こして云う、

 「至道無難」と。

 道の究極には別に難しいものが無いのを云うのである。道が困難になるの

は、吾々が困難にさせるので、道そのものに難事はない。容易な境に入らず

ば道は見えないとも云える。だから「無難」が道である。この域に徹するこ

とが道に徹する所以である。

 臨済録に云う、

  「無事是貴人、但莫造作、祇是平常」云々と。

 無事の境地に住み得る者こそ尊ぶべき人であるとの趣旨である。事を起こ

すのは人為であり、強いて波乱を作るに過ぎぬ。だから平常を忘れて異常を

求むる者は却って道を失う。無事たることは凡ての心事の終局である。

 だがこれ等の言葉の中で、多くの禅僧が繰り返し口づさんだものは南泉と

趙州との問答である。『禅林類聚』巻一に記録してある。

 「趙州和尚問南泉禅師、如何是道、師云平常心是道、州云還可趣向否、

 師云、擬向即乖、州云、不擬又争知是道、師云、道不属知不知、知是妄

 覚、不知是無記、若真達不擬之道、猶如太虚廓然蕩豁、豈可強是非耶、

 州言下頓悟玄旨。」

 平常の心に道があり、平常心が則ち道であるのを説くのである。奇もなく

異もなき日常の動作に、直に大道を見るのである。註して「道は知にも属せ

ず、不知にも属せず、知は是れ妄覚、不知は是れ無記」と記した。色々想い

惑うのは、既に平静を欠くのである。右を愛し左を憎むのは既に心が動き乱

れるしるしである。「信心銘」は「違順相争、是為心病」と説いた。異常を

求むるのは心の病いである。平常に活くるのは健やかなしるしである。

 禅語は深玄であるが、寧ろ当り前な、事なきを説くのが趣旨である。だが

この平易なものほど見逃され易いものはない。それ故「平常」の教えは却っ

て理解し難く想われるのである。いつか凡ての哲理はここに帰るであろう。

美の問題だとて畢竟南泉の答えを答えとせねばならぬ。平常美が美の道であ

る。


   二

 私がこれ等の禅語を借りて来たのは、私が明らかにしたいと思う美の性質

に就いて、示唆する所が深いからである。

 美には様々な相があろう。強い美や弱い美や、激しい美や静かな美や、鋭

い美や優しい美や、楽しい美や悲しい美や、時としては皮肉な美や、冷酷な

美や、陰鬱な美や、色々とあろう。どんな境地も扱い方で美に化して了うこ

とが出来よう。美の対象とならない題材はないとまで思える。

 併し私達はそれ等の様々な美の相を眺めてその中のどれが、価値として最

も上位に置かるべきかを問うことが出来る。又はどれが吾々の生活にとって、

最も重要であるかを省みることが出来よう。

 在来の美学は、如何にしばしば壮厳な美や、幽玄な美や、巨大な美が、美

の王座にあることを説いたであろう。それ等のものが崇むべき美であること

に誰か異議があろう。併し翻って思うに、それ等のものは何か非凡なものを

追う心の要求ではないであろうか。非凡を求めるのは近代心理の特徴とも云

える。少なくとも平凡なものは、美たり難いと考える見方は久しい。想うに

かかる態度は、凡ての分野に群を抜く異数なものに対する憧憬である。それ

は個人主義時代、天才主義時代が必然に求めた美学であった。それは何か驚

嘆すべきもの、崇仰すべきもの、圧倒的なものに、美を求めたい希いの現れ

である。


   三

 だがそれのみではない。個性を重んじた近代は自由性を極度に求めた。そ

うして自由は現実に対する反抗や闘争の形をしばしば取った。反抗は常に極

端と結び合う。近代の美が異常なものにその対象を採ったのは必然な結果で

あった。所謂悪魔的なものや、廃頽的なものや、変態的なものや、夢幻的な

ものや、凡ては平凡を嫌った反動的な表現の道であった。示されたものを見

れば、多くは如何にそれが神経的なものであるか、病的なまでに鋭利なもの

であるかを示している。

 それに近代は意識の時代である。知的性質は近代文化の特色とも云える。

併しその結果、平衡を失するまでに知的要素が溢れるに至った。抽象主義は

その現れである。芸術の多くは生活全体の表現ではなくして、ひとり頭脳の

所産になった。多くの作は鋭敏を示し、分析を誇り、神経を伝えるのに急で

ある。そうしてしばしばそれ等の作は凡人の理解を拒むが如く、奇異に走る。

そうして多くは「新しさ」を強く標榜する。

 併しそれ等のものはしばしば病的な要素を匿すことが出来ない。知的分析

は、神経のみを鋭利にさせた。そうして自負を増長せしめた。周囲は鈍重と

凡俗との土塊に過ぎぬ如く取扱われた。実際幾許かの者は狂者となって、不

幸な天才の末路を示した。こういう現象は近代の不思議な特色と云えよう。

かくして病的なものに美はその奇怪なる花を開いた。


   四

 併しかかる異数な美は、美の本道たることが出来るであろうか。美の正系

と傍系とは区別されねばならなぬ。広々とした大通りと、狭い横路とは差別

されねばならない。如何に鋭くとも細かくとも、又如何に新しくとも進める

とも、若しそれが正道を濶歩していないとすれば、二次的な歩みに過ぎない

ではないか。それは甚しく吾々の理念からは遠い。かかる道は人間の幸福を

約束しない。驚かれることはあろう、併し慕われることは稀であろう。況ん

やかかるものの「新しさ」は時間上のことに過ぎぬ。それ等のものは間もな

く舊い存在に変わるであろう。それがしばしば流行に終わるのは、稀なこと

ではない。

 それ等の運動は何れも美の歴史に於いて何等かの存在理由を有つであろう。

そうして或ものは一つの大きな働きをさえ為したであろう。併しそれは凡て

の人類が則らねばならぬ正道の美であろうか。一つの反動的な異常な現象と

見做すべきではないであろうか。常態の美と目することが出来ない限り、畢

竟変調の美に終わるであろう。それをどうして本道の美と呼ぶことが出来る

であろう。異数の道は僅かばかりの人が歩み得るに過ぎない。天下の大道は

かかる狭隘なものたるを許さない。美の問題に於いて何が常道の美であり、

大通りの美であるかは、最も緊要な切実な問題と云わねばならぬ。


   五

 このことを想う時、種々な美の相の中で、如何に「健康なもの」が、高く

評価されてよいかを考えないわけにゆかない。この言葉は一般に肉体と精神

とに関係して用いられる。健康とは天与の機能が恙なく運用され、凡てに平

衡が保たれる状態を指すのである。この言葉は或は「無事」とも呼ばれ、

「安泰」とか「平穏」とか「平静」とか、かかる意味が含まれているのは言

うを俟たない。

 ここに注意されてよいのは、健康は決して特別な状態を意味しないことで

ある。それは「常態」であり、平常たるべき性質を有する。人は充分健康で

ある時、健康を別に意識しない。健康はそれほど健康なものだとも云える。

健康が意識されるのは病気に在るからと説くことが出来よう。健康は最も平

易な尋常な境地である。私達がかかる美の意義を事新しく説かねばならない

のは、今の吾々に余りにも多く不健康なものが滲み込んで来たからである。

私達は健康の意義をも健康に解さねばならない。それを何か特別な非凡な境

地の如く解してはならない。病的なものからは異常に見えるというまでであっ

て、これを異常に考えることに既に異変があろう。健康をそのままに解する

ことが出来たら、如何にそれが平易な状態に在るかを解するであろう。かか

る境地の美が今まで深く認識されなかったことは、美学の欠陥であった。美

学者は勇んで壮厳の美を説く。非凡なものに思われるからである。併し進ん

で健康の美を讃えはしない。余りにも平凡に感じられるからである。併し美

学者は非凡なるものを最も高く讃美するほど平凡な考えに陥ったのである。

平易な美、健康の美にまさる本然の美が他にあろうか。


   六

 想うに時により所により人によって、美は様々な相を取るであろう。だが

いつか、凡てのものは平常の美に帰るであろう。その境地をおいて美の帰趨

はないからである。健康であることが、生存の常態であるなら、健康の美よ

り生活に即した美はない筈である。近代の美は余りにも病的である。それ故

進んで病的なものに美の鋭利さを求めた。それは畢竟過渡期の現象に過ぎぬ

であろう。そこに文化の帰趣を見出すことは出来ない。人々は尋常なるもの

と倦怠なるものとを混同してはならない。倦怠なものはそれ自身病的なもの

と云えよう。尋常は常態であり、常態は健全なることを意味する。たとえ平

凡に想えるとも、この平凡にまさる価値はない。

 それ故「健康」は最も妥当なる美の理念である。私達は進んで美がどれだ

け健康なるかを省みることによって、その美を評価することが出来る。「健

康性」こそは美の標準である。「健康」は美的価値である。この価値を深く

認識することこそ将来の美学の任務ではないであろうか。そうしてこの美を

表現することこそ、将来の芸術の眼目とする所ではないであろうか。それは

文学に於いても、音楽に於いても、建築に於いても、凡ての造形芸術に於い

ても、真摯に追求されねばならぬ理念である。どんな美も健康の美の前には

価値が浅い。

 嘗て本邦では茶道の美学に育くまれて、「わび」とか「渋み」とかを美の

標準においた。これはややもすれば退嬰的な消極的な美と考えられるかも知

れぬが「渋さ」に最も必要な基礎は確実さであり、健全さである。この要素

なくば、ものは真の渋さに深まってゆかない。如何なる美も健全さと結合し

ない限り、正しい美となることが出来ない。健康は生理に於いても、道徳に

於いても、社会に於いても、美学に於いても、当然基準となるべき原理でな

ければならない。


   七

 それなら如何なるものに、健全なる美が最もよく見られるのであるか。尋

常な品物を求める時、如何に民芸の領域が輝いて見えるであろう。何もここ

ばかりに健康な品物があるのではない。併しどんな領域も、ここに於いてほ

ど如実にその美しさを発揚することは出来ない。想うにその健全さは、生活

に即し、自然に即する品物の性質それ自身から湧き出るのである。作られる

状態も、作る者の心も、使う者の気持ちも、又用いらるる材料も手法も、こ

の領域に於いてほど、正しく常態を示すことはないであろう。ここには作る

者の汚い野望はない。趣味に堕した買い手はいない。作為に痛む材料はない。

それは鋭利な神経や、知識の工作から製られたものではない。もっと自然な

平易な坦々たる世界から生まれてくる。一時も普通の生活から遊離すること

はない。そこには異変はない。多くのものは「平常心」と南泉が呼んだその

境地に発足する。なぜ民芸の分野に健全な美が最も豊かに現れてくるか。そ

こには必然な理法が働いているのである。意識や趣味や主張の過剰は、もの

を健康にさせない。又豪奢や高慢や狡猾さは、ものを常態に置かない。それ

は生活を乱し品物を痛めさせる。美は平安な心に最も深く宿る。美と日常の

生活とが結合される時、美は愈々健全である。望むらくは美は尋常な美であ

りたい。

 青原惟信は嘗て上堂して次の如く語った。

「老僧三十年前未だ禅に参ぜざるの時、山を見れば是れ山、水を見れば是れ

水。後親しく知識を得るに及んで、山を見れば是れ山ならず、水をみれば是

れ水ならず。而して今体得するに至って、依然山を見れば只是れ山、水を見

れば只是れ水」。

 この言葉こそ美への尊い一公案ではないか。


                   (打ち込み人 K.TANT)

 【所載:『工芸』 102号 昭和15年3月】
 (出典:新装・柳宗悦選集 第7巻『民と美』春秋社 初版1972年)

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